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8月14日   藤森治子


※以下の原稿は、メルマガ「ガンジー村通信 終戦記念日特集号」のためにいただいたものです


 加害者としての終戦記念日
            −I will never forget that killer’s face−

 その年の夏、私はオックスフォードで英語の夏期講習を受けていた。講義でよく新聞の記事の要約が求められたり、同じ記事について数種類の新聞の比較が求められたり、記事についての感想が求められることが多かったので、毎日いろいろな新聞を街角のスタンドで買った。自転車の前籠に新聞の束を入れ、近くのボタニカル・ガーデンへ行き、噴水の傍の木陰で新聞を読むことが毎日の楽しみでもあった。

 その日は、日本の終戦記念日の翌日であったので、それに関連した記事が何かあるだろうということは予想していた。しかし、新聞を買って、その場で開いた瞬間、突然目に入ってきた記事のタイトルにどきっとした。Daily Mail 1996年8月16日の一面には、I will never forget that killer‘s faceという文字がおどっていた。写真入で、一面その記事であった。

 記事は第2次世界大戦中、日本の捕虜となって、タイ−ビルマ間を結ぶ泰緬鉄道敷設の強制労働で酷使・虐待を受けた元イギリス兵が、その辛かった体験を述べ、その時指揮に当たった日本兵殺人鬼の顔は絶対忘れないと述べているものであった。その頃、サンフランシスコ条約で敗戦日本の崩壊を哀れみ、正当な賠償請求権の大部分を放棄していたイギリス政府に、それを覆す新たな外交文書が発見され、虐殺・虐待を受けた被害者たちが、賠償の再請求の提訴を日本政府に起こそうとしていた。

 そのような知識はもってはいたが、イギリスの町の中で、この記事を目にした時は、思わずあたりを見まわしてしまった。その時、私は自分の顔にも背中にも、「日本」というシールがはってあって、この記事を読んだかもしれない街行く人々の視線をつきささるように感じたのだった。「あの頃私はまだ幼い子どもでした」などという言い訳が通用しない、日本が辿ってきた歴史のつきつける現実に、現在を生きている一人の日本人として、その責任を引き受けざるを得ない立場に立たされていることがわかった。私たちは誰も自分につながる歴史から逃れることはできない。自分が加害者としての歴史をもつ国の人間であることを痛切に実感した瞬間でもあった。

 終戦記念日には、私たち日本人は、戦死した父や兄弟や空襲で犠牲にあった身内や知人の死を悼み偲ぶ。その場合私たちを支配するのは、主として被害者としての感情だ。それはそれでいい。しかし、あの無謀で愚劣な戦争の犠牲者は、私たち日本人だけではなかった。その10倍以上ものアジアや参戦国の人々の犠牲があったのだが、そのことを私たちは本気で考えてきただろうか。ドイツの元大統領ヴァイツゼッカ−の「荒れ野の40年」のような、加害者としての胸のつまるような真摯な反省が一度としてあっただろうか。

 加害者としての認識のない平和運動は、自ずと限界がある。憲法九条は、加害者にならないという決意の中で創られたのではなかったか。終戦記念日に、加害者としての歴史につながる自分というものをもう一度考えてみたい。余談だが、靖国神社に列車とカノン砲が展示されているが、あれは、泰緬鉄道からもってきた列車でありカノン砲である。あのイギリス人がこれを知ったらどう思うだろうか。一体このようなものを展示する神社とはどういう性格の神社であるのか、もう一度考えてみたい。  





8月12日(木) 末延芳晴

「九条を守るため、靖国神社を見に行こう!」

 6年ほど前、家族と共にニューヨークから日本に引き揚げてきた時、一度だけ靖国神社を訪れたことがある。丁度桜が満開の時期で、そのころ、東京の桜の名所を歩き回り、写真に撮っていた関係 で桜の花を見に行っただけのことで、靖国神社そのものにはまったく関心がなかった。

 いやむしろ、ファナティックな軍国主義国家日本を支えてきた国家神道の精神的、思想的バックボーンとして、この神社が果たしてきた歴史的役割とその犯罪性を顧みて、反感、あるいは拒否感の方がはるかに強った。だから、一生涯足は踏み入れたくないと思っていたくらいで、桜の花が咲いていなければ、決して自分の方から足を向けることはなかったはずだ。また、今、このような文章を書いているはずもない。

 しかし、今、振り返ってみると、あの時、靖国神社に足を運んだことが、今年の一月以来、週に3回ペースでハンストを続けていることにつながっているような気がしてならない。 以下、この二つがどうしてつながるのか、59回目の終戦記念日を迎えるに当たって、その理由について書いておきたく思う。

 あの日、お昼前、うす曇りの空を見上げながら大きな鳥居をくぐり、参道を進むと、見事に咲いた桜の花の下で、花見客がビールを飲んだり、団子や焼きそばをほお張っていたり・・・・そこには過去の戦争の暗い影はどこにもなかった。そんな平成の平和な花見風景を横目に見て、桜を見上げ、写真を撮影しながら境内を回っているうちに、私は、ある事実を発見して愕然と驚かされたのである。何に驚かされたのか? それは、靖国神社全体が、一種の過激な「戦争神社」、あるいは「戦争博物館」になっていて、いまだにあの戦争は正しかったのだということを、懸命に主張しようとしていたことに対してである。

 世界広しといえど、靖国のようにストレートに戦争を賛美した神社はほかにない。そのことを知って、私は、戦争放棄を謳った平和憲法を持つ国に、このような過去の軍国主義の生きた化石のような反動的神社が今も残され、そこに戦没者の慰霊が眠り、歴代総理大臣が詣でているという事実に強い怒りを覚え、同時に、世界に対して恥ずかしいという思いに捉われたのである。

 私は、靖国神社が、「あの戦争は間違っていた、にもかかわらず、あなた方はあの戦争の間違いを証明するために死んでいった。だから、私たちは二度と戦争を起こさないため、二度とあなた方のような犠牲者を出さないために、不戦の誓いを立て、あなた方の霊を弔い、慰めるものである」と、国民に向かって懺悔と反省の意を表明し、平和主義の精神に立って、自らを『平和神社』として宣言し、再生を誓った上で戦没者を祀るのであるなら、それに対して何の異議も申し立てるつもりはない。

 そう、「靖国神社」が、「平和神社」と名を変え、実態を戦争記念館から平和記念館に改めれば、いわゆる『靖国問題』はすべてカタがつくはずなのだ。 国家「君が代」の歌詞を「君が代は・・・・」から「民が世は・・・・」に変えれば、国歌をめぐるすべての問題のカタがつくように・・・・。

 しかし、現実に私が見た靖国はそうでなかった。こんな時代錯誤の「戦争神社」に、戦没者が祀られていていいはずがない。これは、死者に対する冒トクであり、犯罪である。そんな怒りに駆られて、桜を愛でる気持ちなどすっかり失せて帰ってきたことを覚えている。

 あの時、私がもう一つ憤りを覚えたのは、日本人、特に護憲派の知識人や文化人、ジャーナリスト、政治家(中でも革新系の政党政治家)、そして学者たちが、「戦争神社」としての靖国の現実をほとんど知らないということだった。なぜ知らないのか? 彼らのほとんどが、口では厳しく批判しながら、靖国に自ら足を運び、その目で境内の実態を見て回ったことが一度もないから。つまり、いまだに日露戦争当時の戦利品や、太平洋戦争当時の人間魚雷が過去の栄光を今日に伝える記念品として据えられたままになっている境内を歩き、本殿の裏手の庭の樹木に結ばれた戦死者の愛国的遺書や歌を読み、戦争賛美の展示品が並べられた記念館を見て回ったことがないからである。 

 例えば、朝日新聞の月刊誌『論座』の最新号で、あの太平洋戦争の末期、学徒出陣し、戦争の無意味さを身体を持って体験した城山三郎と田英夫氏が対談し、靖国について批判している。しかし、この二人ですらが、靖国には足を運んだことがないと語っている。

 城山や田だけでない。おそらく、社民党の元党首、土井たか子さんのような政治家から「九条の会」を立ち上げた文学者や知識人、さらにはジャーナリストまで含めて、靖国神社について批判的な言説を行ってきた日本人のほとんどが、靖国を訪れ、その内側を見て回り、「戦争神社」としての実態を確かめたことは一度もないはずだ。過去の忌まわしい歴史に対する先入観と嫌悪感の方が先に立ち、あの大きな鳥居をくぐり、境内に足を運ぶこと自体が犯罪的で、恥ずべき行為であるという意識が働いてきたせいなのだろう?

 一方、毎年靖国に参拝する自民党の政治家はどうだろうか? ほとんどは、公用車で門前に乗り付け、神官の出迎えを受け、その先導で神殿に進み、参拝を済ませて帰るというスタイルで行われてきただけに、個人として神社の境内を見て回った人は、ほとんどいないはずだ。

 ましてや、直接的には戦争を体験していない小泉純一郎が、個人として靖国を訪れ、一体この神社は何なのだろうかと疑問に思いながら、見て回ったとは到底思えない。要するに、この神社の実態が世界に類を見ない「戦争神社」であることをまったく知らないまま、小泉純一郎という軽佻浮薄な二世議員が、内閣総理大臣になってしまった。 そこに、結果として、自衛隊のイラク派兵を許すことになってしまった、最大の原因があるといっていいだろう・

 もし、小泉純一郎がそのことを知っていたなら、戦没者の慰霊に頭を下げながら、「二度と戦争を起こしてはいけないと思った」などと、馬鹿気たことが言えたはずがない。 「戦争神社」に参拝して不戦の誓いを立てることは、暴力団の団長の前で『非暴力』の誓いを立てるのと同じように、子どもでも分かる矛盾した、馬鹿げた行為であるからである。

 にもかかわらず、小泉純一郎は、総理大臣になってから何度も靖国に詣で、そのつど、「不戦の誓いを立ててきた」と公言してはばからなかった。それに対して、マスコミを先頭に、国民世論から大きな反対の声が上ったわけだが、その理由は、大きく分けて二つある。一つは、戦犯が合祀されているから、もう一つは、中国や韓国などアジアの隣国が強く反対しているからというものである。 私は、この二つとも的を得た正当な反対理由になると思う。

 しかし、より本質的には、「戦争神社」である靖国で不戦の祈りを捧げることの矛盾こそが指摘されなければならないだろう。にもかかわらず、誰もこの矛盾に気づいていないため、「戦後日本の平和と繁栄の礎となった戦没者の方々を追悼し、不戦の祈りを捧げてきた自分のどこが悪い!』という小泉首相の開き直りを、本質的に打ち砕く言説を展開することができないまま来てしまったのである。

 さらにまた、一層不幸なことは、戦後の護憲派の政治家や知識人、ジャーナリストのほとんどがこの矛盾を見抜いてこなかったことである。確かに、彼らは、天皇絶対主義の超軍事国家、日本の精神的支柱として機能し、結果として多大の犠牲者を生み出し、敗戦と国土崩壊、さらに民族絶滅の危機に追い込んだ靖国の過去の犯罪性を、ことあるごとに指摘し、批判してきた。しかし、過去の犯罪性は、「反省しています』という言葉で許されてしまう。加えて、膨大な数の戦没者の遺族が靖国の存続を望む以上、靖国は消滅しない。そして、日々存続し、参拝者が絶えないという事実が積み重ねられ、結局靖国の存在そのものが既成事実化し、いつの間にか、国民意識の中で、靖国は「あるもの』として受け入れられてしまう。

 要するに、靖国を根底的に批判するには、現在犯している犯罪性が指摘され、指弾されなければならないのだ。そこで、靖国が今も犯罪的な存在である証拠として持ち出されるのが、前述したとおり、東条英機ら戦犯が合祀されているという事実である。だが、この事実も、よく考えてみると、証拠としての妥当性とインパクトに欠けているといわざるを得ない。なぜなら、東条英機ら戦犯の名が、靖国の名簿から外されれば、靖国の存在は認められ、総理大臣らの参拝も許されてしまうことになる。そして、戦犯合祀を理由に靖国を批判してきた護憲派の政治家や知識人、言論人は、批判と反論の足場を失ってしまうことになるからである。相手を批判する時には、私たちは、相手の実体と本質を先ず見極め、何が間違っているかを見定めておく必要がある。そのことを怠ってきたことのツケが、今、自衛隊のイラク派兵、あるいは憲法第九条廃棄という形で、回ってきている。そのことの意味は極めて重大である。

 私たちは、今の靖国神社の存在と機能のあり方そのものが、裏切っているという視点から、靖国批判の視座を構築していかなければならない。にもかかわらず、私の知る限り、この矛盾を正確に認識し、「戦争賛美の神社に一国の総理大臣が参拝してはいけない」という言い方で、小泉総理大臣の靖国参拝を批判していたのは、なんとあの自民党の元幹事長で、保守本流の中でも最も自民党的な寝業師と言われてきた野中広務だけである。 この皮肉な事実の中に、戦後の革新系政党や進歩的知識人による靖国批判や自衛隊批判、あるいは憲法擁護の運動が、平和を求める国民感情と本質的に深くリンクできなかった最大の理由があるといっていい。

 私は、戦後の日本が健全な民主国家として成長できず、また欧米型の真の市民社会が育たない最大の原因が、主権在民という憲法上の大原則が、皇室の存在を認め許したことで、根底から裏切られていることにあると思ってきた。つまり、憲法そのものが抱える矛盾(嘘)が、戦後日本のあらゆるレベルにおける、精神的、道徳的腐敗と欺瞞の原因となり、真の民主主義国家と市民社会の発展を阻害してきたのである。

 ところが、靖国を訪れたことで、私は、もう一つ戦後日本の欺瞞的体制を生み出す原因があることを知った。それは、平和憲法によって、武力を放棄し、戦争を放棄したはずの日本が、戦没者の慰霊を祀るという美辞麗句で飾り立てながら、実態は「戦争神社」、「戦争博物館」に過ぎない靖国の存在を許し、国を代表する総理大臣が毎年詣でてきたという事実である。
自衛隊が憲法違反であるという前に、靖国こそが憲法違反であることが指摘されなければならなかったのだ。靖国が「戦争神社」であり続けることを許した、そのことの中に、憲法に違反することを知りながら自衛隊が作られ、世界有数の軍隊にまで肥大化させ、結果的にイラクへの派兵まで許すことになった最大の原因があったのである。

 そうした意味でも、靖国神社は、過去の犯罪性だけでなく、現在の犯罪性、すなわち、その存在そのものが、平和憲法の精神を踏みにじり、九条の空文化、ないしは廃棄の動きを支え、日本の軍国主義化と右傾化を不断に推し進めようとする力の源泉として機能していることに対して、批判の矢は放たれなければならない。

 再び言おう、靖国神社を「戦争神社」として、その存在を許し、放置しておいたことが、今回の自衛隊のイラク派兵の最も直接的な原因となったのである。この文の書き出しの部分で、私が、6年前、靖国を訪れたことが、今回、自衛隊のイラク派兵に反対して、ハンストに立ち上がったことにつながっていると書いた理由がここにある。

 憲法は、一つの国がよって立つ根本理念の表現であり、その国に生きる国民との間に交された契約であり、国家としての倫理の源泉でもある。今、日本国憲法の根本理念を2つに要約するとすれば、一つは「主権在民」であり、もう一つは「戦争放棄」と「絶対平和主義」である。このうち、前者の「主権在民」は、欧米諸国の憲法に普遍的に書き込まれている理念であるが、後者の「戦争放棄」と「絶対平和主義」を掲げた憲法は、過去、および現在共に、日本国憲法を除いてほかにない。つまり、「戦争放棄」と『絶対平和主義」とを憲法理念としてい戴くことによって、日本は、この地球上、そして人類史上、唯一無二の国たりえる契機をつかんだわけである。確かに、あの戦争と敗戦によって失ったものは余に大きかった。しかし、逆にまた、手に入れたものも、途方もなく大きかったのである。

 ところが、誰も予測できない形で、この二つの理念の根底に、理念そのものを空洞化し、無意味化する仕掛けが仕組まれていたのである。そう、象徴天皇制と靖国神社の温存という・・・・。

 だがしかし、天皇制を温存させたことが、世界史における日本国憲法の唯一無二性を失わせたわけではない。イギリスを筆頭に、「主権在民」の民主主義を採りながら、王室制度を採用している国は少なくないからである。つまり、象徴天皇制は、「主権在民」の理念を空洞化することによって、日本人の倫理的退廃を生み出す源泉とはなったが、日本の再軍備を促す原動力となったわけではない。

 ならば、いったい何がその原動力となったのか? これまで書き連ねてきたことから明らかな通り、靖国神社こそがその正体だったのである。その意味で、より犯罪性が大きいのは、靖国神社を温存させたことで、平和憲法が骨抜きにされ、結果として、日本を人類史における特権的地位から失墜させ、並みの軍事国家に堕落させてしまったことである。

 しかも、靖国神社は天皇の赤子として戦死していった日本人の霊を祀ることで、天皇制と日本の再軍備化を結びつける「要」のようなものとして機能してきたのである。私は、この人類に対する裏切りに等しい、狡猾なグランド・プランを誰が作り、誰が推進してきたのか知らない。しかし、あの戦争が終わった直後から今に至るまで、ひそかにこのプランに沿って、日本の軍国主義化を狙い、九条を廃棄させようとしてきた人間が、太平洋を挟んで日本とアメリカの側にいたこと、そして現にいることは間違いない。 もちろん、ブッシュは、そうした人間たちの本音を代弁し、プロジェクトを実行に移すために選ばれた大統領であった。

 現に今、自衛隊のイラク派遣によって平和憲法の根本精神が踏みにじられ、第九条廃棄の目論見が、政治的なプログラムとして、具体的日程にまで上ろうとしている。事態をここまで悪化させた原因の一つが、護憲派の政治家から、言論人、ジャーナリスト、市民の平和運動家まで、靖国の実態を見極めることなく、憲法の基本精神を根底から裏切る「戦争神社」が存在することの矛盾と欺瞞性を指摘することなく、許してきてしまったことにあることをもっと私たちは認識していかなければならない。 そしてまた同時に、この「戦争神社」の存在それ自体が平和憲法を犯していることを、広く国民に周知させていく必要がある。そのためには、まず、私たち自身が、靖国を訪れ、その「戦争神社」としての実態を見極めて行くことが、喫緊の課題となるであろう。

 だが、いかに私たちが靖国の本質を見抜いたとしても、それをより広く、国民に伝えるのは至難の技と行っていい。特に、戦争をまったく知らない若い世代の日本人に対して、いかにして戦争を語り、戦争の悲惨さを伝えていったらいいのだろう? 先月24日、「九条の会」の設立・発起を記念して、東京のホテル・オークラで、ノーベル賞作家の大江健三郎氏や小説家の小田実、井上ひさし、評論家の加藤周一、鶴見俊輔氏ら発起人が集まり、講演を行った。それぞれが自身の戦争体験を振り返り、戦争の悪を語る言葉は重く、「九条」擁護と護持に向けて、身を挺して最後まで戦うというの講演者一人一人の熱い思いは、強く、深く私の胸を打った。そして、ここに言葉の力によって、平和憲法を守り通そうと覚悟を固めた人たちがいることを確認して、私は、半年前ハンストリレー・マラソンをスタートさせて以来、私を悩ませ、苦しめてきた孤立無援という思いを、ようやく払拭することができたのである。

 だが、講演が終わり、夕暮れ方、渋谷に出て、屈託ない表情でストリートを歩き、たむろする若者たちを見て、私は再び絶望的な気持ちに沈んでしまった。なぜなら、大江さんの話も、鶴見さんの話も、講演会に集まった50歳以上の聴衆には理解され、それぞれの重みは共有されるだろうが、今、渋谷の空間を歩く若者たちにはまったく伝わらないし、100%確実に共有されないことが分ってしまったからである。大江健三郎に象徴される世代の日本人と、渋谷を歩く若者に象徴される日本人とでは、まったく別の世界に住む別人種であり、異人種である。そして、この二つをつなぐメディアとして、言語はほとんど無力である。

 この体験を通して、私は、一つのことを思い知らされた。それは、圧倒的な勢いで、活字離れが進む現代社会において、言語によって戦争を若者たちに語り、その悲惨な実態を伝えることには、おのずから限界があるということである。だが、それなら、私たちは、何によって、若者たちに伝えたらいいのか?・・・・ いや、伝えるのが根本的に無理なのなら、何を契機にして、若者たちは、自身の問題として戦争に出会い、その「悪」の本質をリアリティをもってイメージし、反対するにせよ、賛成するにせよ、戦争に対する基本的な考え方と姿勢を、自分たちのメッセージとして世界に向けて発信していくことができるのか?・・・・・

 そう考えた時、私の頭にひらめいたのは、ジョン・レノンの『イマジン』だった。そう、もう15年も前、東西の壁が解体し、地球の上から戦争を生み出す悪がなくなったと世界が信じた時、世界の平和ソングとして歌われたあの『イマジン」である。

 だが、それにしても、なぜ『イマジン』が浮かんできたのか? その理由は、若者たちの感性のベースにあるのが音楽であり、『イマジン』に象徴される平和と愛の祈り、あるいはメッセージは、若者の胸にストレートに入っていくに違いないと思ったからである。書かれた言語より、メロディやリズムに乗って歌われ、演奏される反戦の歌や詩のほうが、はるかにストレートに若者の心に入っていきやすい。

 平和憲法を、そして第九条を、永遠の日本の国是として守り、子々孫々に伝えているために、あの戦争の悲惨さを体験した世代の日本人は、可能な限り言葉の力によって戦争の悲惨さを、そして平和憲法のかけがえのなさ、尊さを若い世代の日本人に伝えようと努力してきたはずだ。そうした努力の結果として、戦後の文学は、近代戦争文学として空前の成果を収めたと言っていいだろう。

 しかし、音楽は?・・・・あの悲惨な原爆投下や空襲、そして無意味な敗戦がもたらしたもののどれだけが、たとえば、交響曲や室内楽、あるいはオペラやオラトリオといった形式で表現されただろうか? 果たして、私たちは、音楽というメディアを通して、戦争と全面的に向かい合ってきたといえるのだろうか? そう考えてきて、私の中で一つだけ、戦争と向かいうる音楽の可能性として浮かび上がってきたのがロックだった。ロック・ミュージックは、若者の心に圧倒的な影響力を及ぼすニュー・メディアである。60年代、ベトナム戦争の泥沼化に苦しむアメリカにあって、反戦・平和、反体制の文化運動を支え、推し進めた原動力の一つは、間違いなく、ニュー・ミュージックとして台頭し、時代の風に乗って、全世界に広がっていったロックやフォーク・ミュージックだった。

 ところが、日本はどうっだったか? もちろん、ビートルズヤローリング・ストーンズのロックやボブ・ディランのフォーク・ミュージックを筆頭に、欧米のニュー・ミュージックは怒涛の勢いで日本にも流れ込み、和製ロックやフォーク・ミュージシャンも出現した。しかし、反戦・平和や反体制的メッセージを歌ったロックやフォーク・ミュージックは育たなかった。100年前、パリの万博に出演し、大センセーションを巻き起こし、欧米にジャポニスム台頭の口火を切った川上音二郎一座が、パリで録音した「オッペケペ節」のレコードをCD復刻版で聴けば解るとおり、日本の大衆芸能は強烈な権力批判を、破天荒な集団パフォーマンスを通して行っていた。しかし、その伝統はすっかり廃れ、60年代のロック全盛期においても、蘇ることはなかったのである。

 あれから30年余、自衛隊が海外に派兵し、憲法第九条が実質的に廃棄されようとしている現在においてさえ、若者の間から、この現実を批判する音楽は聞こえてこない。だが、この絶望的な状況において、救いがまったくないことはない。それは、今の若者が、私たちが同世代であったころより、比較にならないくらい、鋭く、深く、先端的に世界の音楽を聞き込み、感性のレベルで消化しきっていることである。何か一つのきっかけで、それが創造的レベルにスィッチ・オンされれば、堰を切った洪水のように、時代の現実を真っ向から批判し、変革を求める音楽が出てくるはずなのだ。日本の若者に残された唯一の可能性は、そこにしかない。

 たとえば、「九条」の条文そのものを歌詞にしたロック、あるいは「君が代は・・・」の歌詞を『民の代は・・・」に歌い替えた『君が代』ロックが、35年前、ウッドストックでの音楽祭の最終日、トリのステージで、ジミ・ヘンドリックスが弾いた「星条旗よ永遠なれ!」のように演奏され、歌われる・・・・。そのような形で、音楽を通して、「九条」の精神が若者たちの血肉と化していく。そう、今、私が、ただ一つ将来に対して明るいイメージを抱きうるのは、音楽する若者たちであり、彼らが「九条」ヤ『君が代』をロックする姿だけである。

 だが、彼らは、いつ、どのようにして創造的きっかけを掴み取ることができるのだろうか? いや、彼ら自身に掴み取るができないのなら、彼らの親の世代の属する私たちが、彼らにつかみ取らせるような場をセット・アップすることができるのだろうか? そこまで考えてきて、私の中に今、一つ新しいアイディアが生まれてきた。それは、修学旅行や夏休みの旅行で東京に出来た高校生や中学生に、ぜひとも埼玉大宮の「ジョン・レノン・ミュージアム」を訪れさせるということである。

 いわば不登校の不良少年として育ったジョン・レノンが、いかにして音楽、特にロック・ミュージックと出会い、人間として生きる道を発見して行ったか、ソシテオノ・ヨーコという日本人前衛アーチストと出会い、愛し合うことを通して人間として蘇り、「イマジン』という永遠の反戦音楽を創るに至ったか、そのプロセスを展示を通して辿ることで、少年たちは、音楽という平和的なメディアによって世界と関わることの大切さを学び、戦争や武力によっって人を支配し、不幸に貶めるような方向だけは避ける形で、自らの人生を組織化していこうと、決意を固めるだろうから・・・・。

 だがしかし、話はここで終わらない。私の中でひらめいたもう一つの取っておきのアイディアは、日教組からは大反対を食らうかもしれないが、その後で少年たちを靖国神社に連れて行き、境内をしっかりと見て回わらせるということである。そうすることで、彼らの内の何人かは、この「戦争神社」の時代錯誤性と危険性を見抜き、平和と不戦、非暴力の誓いを胸に、これからの人生を生き抜く決意を固め、そのことをロックを通して表現して行くようになるかもしれない。

 靖国神社を訪れる日本人のほとんどは、戦没者の遺族やその関係者、あるいは右翼的な考え方の持ち主であり、普通一般の日本人は訪れようとしてこなかった。だから、大多数の日本人、特に若者たちは、靖国が「戦争神社」であることを知らない。新聞やテレビ・メディアが、靖国の実態を暴く報道もしてこなかった。その結果、靖国問題の本質は、戦犯合祀の問題に単純化され、「戦争神社」としての実態は覆い隠されたまま、今日まできてしまったのである。

 さてそれなら、今、私たちは何をしなければいけないのだろうか? 結論として、私が言いたいのは、戦犯合祀の問題が解決されようと、戦没者のための国立の共同墓苑が設立されようと、「戦争神社」としての実態を改めない限り、靖国神社は憲法に違反する存在であり続け、平和憲法の根本精神をなし崩しに空洞化させ、日本を軍事国家として再生させる力の源泉として機能し続ける危険があることを徹底的に認識し、批判する視点と言説が、全国民的広がりの中で、確立されなければならないということである。 その意味で、私は、「九条の会』のような組織が、靖国問題積極的に取り組み、議論を深めていってくれることを強く願っている。

 今こそ、私たちは、靖国の実態をこの眼で確かめ、戦争賛美の体質を暴き、徹底的に批判しなければならない。そのためにも、この夏、少しでも多くの日本人が靖国を訪れ、その危険な本質を、自身の目で見抜いてくれることを願ってやまない。







●2004年1月〜7月分 >>>GO