6月4日(金)〜5日(土)ならびに7日(月)〜8日(火)  飯村孝夫

 
自由に発言することが保証されているといわれながら、言いたい事を言うと袋叩きにあい、それに対して「自由に発言して何が問題なのだ」とはならず、謝罪に追い込まれるということを目の当たりにしました。
また、先日報じられた小6の事件では、メールで気に障る悪口を繰り返されたので殺人に駆り立てられた(原因についてはまだ正確ではないと思いますが)という記事を読みました。

 2つの事件で思いましたことは、湾曲的表現に慣れてきた多くの日本人にとって、感情がストレートにのった表現を受け止めるのは大変苦手であり、それによって傷つく人が多いということです。

 よく、児童・生徒が「何をしようと自由だ、どう表現しようと自由」と言いますが、その裏付けを尋ねると「だってそうに決まっているもの」と続けます。
ところが当の本人がなにか場面で、指摘されたくないことをいわれるとえらく傷ついているのを何度も見てきました。

 自由に発信することはできても受信する精神が育っていない、洋服は着ていても、日本の精神文化はそう変わっていない、つまり、頭の中では構築されてはいるものの、精神化、肉体化されていないのではないか、あるいは理念ではそうと理解していても、文化としては浸透していないということなのでしょうか。

 しかし、だから日本の民主主義は遅れているとか、現憲法が日本の文化に合わないとは思いません。

 中学1年の時、英語の考え方から英語の解説をした本の中に、日本では食事や持参したお土産を相手に渡す時に「お口に合うかどうかわかりませんが、お召し上がりください」と言葉を添えるが、英語の場合には「これはとてもおいしいので、召し上がってください」と言葉を添えるという話しが出ていて、とても印象的だったのを思い出しました。
ここから敷衍して、「他人の嫌がることはやらない」に対して「自分がよいと思うことを相手にしてあげる」等々、さまざまな対照を例示できます。
2つを対比しますと、一般的には、前者は消極的、後者は積極的に映ると言えるでしょう。しかし、後者は相手にとって善意の押し売りになることもあり、独善になることを自覚しておいてほしいと思います。




6月3日      末延芳晴

 2週間ぶりに東京に戻ってきました。 
京都でも週2回のハンストは続けていましたが、インターネットが使えなかったので、「ガンジーの村」で何が起こり、誰がどんな書き込みをしているのか全く知りようがないため、それまで自分が関わって来たネットの世界が、何か陸棲生物にとっての水中世界、あるいは現世を生きる人間にとっての来世のように、全く無関係な別世界のように感じていました。 もし僕らが死んだ後でも意識を持つことができるとすれば、死ぬ前の世界(此岸)はこんな風に感じられるのでないでしょうか。 何故なら、その世界が実在することは間違いないのに、目に見ることも、手に触って確かめることも、電話やEメールでコミュニケートすることもできないからです。 というわけで、今回2週間余り、パソコンから離れ、加茂川の川原や大原の里山を犬と散歩しながら考えていたことをいくつか記して見たく思います。

 まず最初に思ったことは、パソコンを使えない人々にとって、インターネットの世界で起こっていることは、全く実在感がない「無」、あるいは「超」の世界での出来事だということです。 僕らパソコンを操作し、インターネットやEメールで目に見えない人々とコミュニケートしている人間にとっては、ネットの世界こそが実在の世界であり、日本人全員、いや世界中の人間が全員そこに参加し、僕らの書き込みを読んでいるように思い込んでしまいがちですが、それは錯覚なんですね。 世界の半数、いやそれ以上の人間が、インターネットなど全く関係のない世界で日々生活している。 そして、そちらの側、いえ、こちらの側に生き、生活している人々が感じ、思っていることが世論の動向を決め、50%を越える支持率を小泉内閣に与えているのです。 明らかに外交的には失敗したのにもかかわらず、蓮池さんと地村さんたちの子供さんが帰国されたことで、支持率が10%以上も上がったことに対して、「ど>うして?」と疑問の声が識者やマスコミの間に上がり、言いようのない幻滅感が広がっています。 しかし、もしマスコミの世論調査がパソコンを日常的に使いこなしている世帯を中心に行われていたなら、ずいぶん違った結果が出ていたと思います。

 というわけで、インターネットの世界は、日本では、まだ現実の世界の世論を変えうるだけのインパクトを持ち合わせていない。 だがしかし、インターネットの世界が実体のない、陽炎のような「虚無」の世界かというと、それも違うんですね。 
人々の思い、考え、感じたことを映し出すパブリックな「鏡」あるいは「メディア」という意味において、インターネットにはインターネットの世界だけが持ちうる独自の実在性とリアリティがある。 だからこそ、インターネットでの意見表明や交換、態度決定が世論を形成し、動かす力の一つになりえているのだと思います。

 只、現在の時点では、インターネットの世界に生きる人間とそうでないに人間との比率では、残念ながら後者の方が圧倒的に多いはずで、インターネットを通して形成
された世論が、現実の政治を動かせない理由、そして僕らがそのことに対して苛立ちを感じざるをえない理由がここにあると思います。 写真家の染谷さんは、「週末、温泉宿に泊まりに行くのが生きがいになっているようなおばちゃんたちでも参加でき
る反対運動を!」と提案してくれましたが、残念ながら、今のところ、そんなおばちゃんたちはパソコンを使いこなさない。 たとえ使いこなしていても、僕らのホームページには間違ってもアクセスしてこない。 いえ、温泉に入ることより美味しいものを食べる方に関心のある彼女たちは、何かの縁で僕らの運動を知ったとしても、ハンストなんか見向きもしてくれないというのが、悲しい現実なのです。 おそらく、防衛庁が防衛省に昇格し、徴兵制が復活し、実際に戦争が始まったなら、真っ先に赤紙を送りつけられ、息子たちを戦場に送り出すことを強いられ、戦死の知らせを受けて、涙を流さなければならないのが彼女たちだというのに・・・・・僕らの運動が、当初考えていたように草の根のレベルで広がらなかった理由の一つがここにあると思います。

 しかしだからといって、インターネットが現実世界に対してまったく無力かというと、そうとも言い切れない。 世代構成的に見て、パソコンを使いこなす世代は30台、20台と若い世代の人が圧倒的に多く、彼らが日本を動かす中心的な力となるであろうもう10年から15年先を考えれば、インターネット世論が政治や社会を動かす大きな力になるに違いないと思います。 その意味で、現在は過度時期といいましょうか、インターネットがオルタティヴ・メディアとして、かなりの影響力をもちながら、まだ、新聞やテレビ・メディアに代わりうるだけの力を持ちえていないということなのでしょう。

 田原総一郎などという胡散臭いジャーナリストが、テレビで日本の政治を取り仕切っているような顔をして、一国の代表野党の代表を「辞めろ!」と恫喝して一向恥じない。 しかも、自分の年金未納が明らかになって、さすがにジャーナリストとして恥じ、けじめをつけるべく番組から降りるかと思っていたら、一言謝罪しただけでチョン。 それなら、菅代表と同じように年金未納が発覚した小泉首相や公明党幹部に辞任を迫るかと思ったら、それもなし。 それどころか、『小泉首相は北朝鮮から舐められた』という早稲田大学の先生のコメントに逆切れして、小泉訪朝は成果ありと露骨によいしょし、番組の最後では、公明党の神埼代表や冬柴幹事長の代わりに出てきた大田という議員と真っ先に握手・・・・こん情けない茶番が平気でまかり通っているのは日本だけで、なぜそれが許されているかというと、世論を左右する影響力をテレビメディアが、圧倒的に優越する形で握っているから。つまり、日本の国民が、テレビから発信されるメッセージを無批判に受け入れてしまっているからなのです。

 しかし、こんないいかげんな事がいつまでも続くとは思えません。 なぜなら、インターネット・メディアが今後さらに広がっていけば、テレビメディアが世論形成メディアとして現在保持している優越的な地位を失っていくはずだからです。 その意味で参考になるのは、アメリカにおけるテレビのあり方で、アメリカではテレビメディアが日本より早く発達したため、一般市民がテレビに飽きているというのか、チャンネルの数こそ無茶苦茶たくさんあるのですが、日本人のようにはテレビを見ません。 その結果、テレビの番組表を見れば分かるとおり、スポーツと昔の映画の再放映番組が圧倒的に多いのです。

 言い換えると、自分の政治的判断を下す上で、アメリカ人が頼りとしているのはやっぱり新聞であり、タイムズやニューズウィークなどのオピニオン・マガジンであるということ。そして、活字メディアが世論形成の力となっていることで、アメリカは政治や社会の健全性を維持してきたと言っていいと思います。 ところが、あの9.11事件以来、アメリカ人は、何度も何度も繰り返しテレビの画面に映し出されるトレード・センター・ビル崩壊の画面から放射される視覚的インパクトとメッセージに圧倒され、気が付いてみたら「テロリスト撲滅」「フセイン打倒」一辺倒の世論に追い込まれてしまっていたのです。 もちろん、その背景に、テレビによる視覚的情報インパクトを操作するノウハウを知り尽くした、ブッシュ政権の巧妙な誘導操作があったことは間違いありません。 しかし、イラク戦争の泥沼化と平行して、アメリカの世論がテレビ報道の嘘に気づき、今、活字メディアが伝える事実によって自身の意見を検証しなおそうとする動きが出て来ていることは確かです。 その点で、いまだに政府与党がテレビ・メディアを思うように操作し、世論を都合のいい方向に誘導している日本より、アメリカはまだ救いがあります。

 インターネットの可能性として次に僕が考えたのは、僕たちが開設したホームページが、水や樹木の緑に飢えた人々にとって、砂漠の中のオアシス、あるいは都会の中の池や川なような存在して機能しているということです。 先日、鴨川の川原を散歩していて、コンクリートで固めた護岸壁に2メートルを越える青大将が腹ばっていてびっくりしました。 大原の里山でもしょっちゅう蛇に出会います。 いえ、蛇だけ>でなく、いのしし、鹿、猿、いたち、とんび、タカ、さまざまな種類の鷺やおしどり、カエル、かに、蝶々、蛍・・・・・・川が流れていると本当にたくさんの生き物が集まってきます。 今、この書き込みをしている東京は杉並区の善福寺の部屋の前は小さな池なのですが、この都会の真っ只中の池にも、蛇、カエル、ザリガニ、鮒、鯉、からす、スズメ、はと、うぐいす、せみ、こおろぎ、アヒル、食用カエル、犬、ネコ、ねずみ・・・・・とたくさんの動物が集まってきて、それぞれの声で一日中鳴いています。 今は、食用カエルの季節で、「モーモー」と牛のような声で一晩中鳴きとおしています。 動物だけではありません、若い恋人のカップルから、保母さんに連れられた幼稚園の児童、唱歌や詩吟の会のメンバー、魚釣りの親子、犬の散歩、アコーディオンやギターの練習に来る若者、早稲田大学の応援団部の団員、ホームレス・・・・さまざまな人間がやってきて、池の端の緑の木陰で思い思いのときを過ごしています。 そこに生きた水の溜まりが一つあるだけで、自然が密集してくる。
 
 僕たちのホームページもそんな風に、いろんな人が集まってきて、それぞれの声で歌い、意見を陳べる、そんな池や川のような存在であるなら、それなりに存在の意義はあるといえるでしょう。

 以上、昨晩遅くインターネット・コミュニケーションについて京都で考えたことを書いて来て、明日の朝、その続きとして、デメリットについて書き込もうと思って、パソコンをシャトダウンして、テレビのニュースを入れたら、長崎の小学生6年生の女の子の痛ましい殺人事件が報じられていました。 今朝の新聞報道によると、動機は、インターネットのチャットで要望について悪口を書き込まれたからだとのこと。
 いみじくもインターネット・コミュニケーションのデメリットが象徴的に露呈した事件と言わざるを得ません。

 大人で、すでに60歳を越えた僕ですら、インターネットの世界で面識もなく、言葉を交わしたこともない人たちとコミュニケートしていると、自分自身の内面と孤独に向かい合う時間がなくなってしまう、しかもそのことの異常さに気が付かなくなっていて、これではいけないと思わされることがよくあります。 インターネットの書き込みで、誤字や人名表記の間違いが多いのは、「送信」や「投稿」をクリックする前に、書き込んだ文章をほとんど読み返さないからなんですね。 これが、活字になる文章だと、何度も入念に読み返すので、そういう誤りはほとんど犯さない。 ところが、インターネットの文章は、自分の内面とあんまり向かい合わないで書けてしまう。 そして、そのような文章を習慣的に書き込み、それに対する反応を読み、またそれにレスポンスするということを繰り返していくうちに、いつのまにかインターネットの世界そのものが自分が生きている世界、あるいは舞台であるかのように錯覚して、無意識のうちにある擬態、あるいはパフォーマンスを演じてしまっている。
それはある意味で、とても危険で、怖いことのように思えます。

 さて、新聞やテレビの報道によりますと、怜美ちゃんという女の子を殺害した女子児童は、チャットに自身の容貌についてネガティブなことを書き込まれたので、殺害を決意したとのこと。 ネットに「髪が似合わない」などと書き込まれても、読む方は誰もその女子児童の顔も容貌も知りようがない訳だから、何ら心配する必要はないと思うのですが、それは、ある程度年齢が達した大人の常識であって、11歳の子供にはそれがわからない。 女子児童にとっては、現実に彼女が生き、生活している世界よりインターネットの世界の方が遥かに生きた現実であり、絶対的にリアリティを持ってしまっていたのでしょう。 そのため、彼女は、怜美ちゃんに何度か書き込みを止めるよう求めたという。 ところが、それを断られたことで、彼女は、自分の容貌についてのネガティヴなイメージが、彼女にとって唯一の現実世界であるはずのネット世界に永久に定着し、それが世界中に広がっていってしまうことを猛烈に恐れた。 チャットの世界が、彼女のクラスメート3人だけの閉ざされた、架空の世界であることが分からず、世界に向かってストレートに開かれた世界であると錯覚してしまった。 そして、自身の容貌についてのネガティヴなイメージが、世界全体を覆い尽くしてしまうと確信した。 11歳という人生の入口に立った少女にとって、それがどれほど恐ろしく、絶望的なことだったことか・・・・・。 それを食い止めるための唯一の現実的な手段が、ネガティヴ・イメージを作り出し、世界に向けてばら撒いている元凶である怜美ちゃんを殺すことだった・・・・・。
 
 新聞やテレビの報道によると、彼女は突発的な衝動に駆られて怜美ちゃんを刺したのではなく、数日前から殺害を計画していたという。そして、前の晩テレビで見たサスペンス・ドラマの筋書きに従って、怜美ちゃんを後ろから目隠しをして、ナイフで首を切ったという。殺害の手口から見て、児童犯罪史上、前例ののないものだそうですが、 ある新聞の報道によると、彼女は将来作家になることを希望し、自分のホーム・ページに「苦汁、絶望、苦しみが私を支配する」という詩を書き込んでいたという。現時点で確定的なことはいえませんが、もし、それが事実だとすると、彼女は、あるときは「絶望」や「苦しみ」に支配された現実的日常栄活を生き、自身の内面を言葉で見つめる事をしながら、あるときは、それとは逆の、内面性が完全に消えたバーチャルな世界を生きていた。そしてテレビ・ドラマや動画(バトル・ロワイヤル)の主人公のパフォーマンスをなぞるようにして生き、行動してきた。そう考えてくると、僕には、怜美ちゃんの殺害を決意したときから、彼女が、「絶望し」「苦しむ」主体としての内面世界を放棄し、バーチャル世界に生きていたと思えてなりません。もし、彼女が、「絶望」や「苦しみ」に支配された世界に止まっていたなら、怜美ちゃんにナイフを振るうことはなかったはずで、「絶望」し、「苦しむ」という人間的「行為」を引き受けた人間は、自らは殺しても、人を殺すことはないからです。
 
 彼女にとって何より不幸だったのは、12歳という年齢が、「絶望」や「苦しみ」を引き受けるには余りに幼なすぎたこと、そして、生れ落ちたときから、テレビやテレビ・ゲーム、インターネット、携帯電話など視覚的な電子メディアから放出されるイメージに晒され、圧倒され、押し流され、人間的心の営みとは無縁なバーチャルな世界に溺れ、飲み込まれてしまっていたこと。きわめて人間的に苦悩する純粋な心の持ち主でありながら、それゆえに彼女は、人間的な感情や思考の働きを許さないヴァーチャル世界に心の主体性を奪われてしまっていた。それはもう少女一人の責任の問題を越え、そのような社会的、文化的、家庭的、教育的環境を作ることを許し、受け入れてしまった私たち大人全体が責任をw負わなければならない問題なのではないでしょうか? そう考えてくると、この不幸な事件に僕たちは「傍観者」でいることはできない。何故なら、すでに書いてきたように、彼女を殺人に導いた世界は、インターネットを介してハンストを続けている僕たち自身が直面している世界でもあるからです。
 
 もちろん、事件が起こってから数日しか経っていない時点で、少女が自身の心を冷静に見詰めて、言葉で表現することはほとんど不可能なことでしょう。何が、12歳の少女を殺人に駆り立てたのか。今後、時間をかけて解明されていく必要があるでしょう。
 ただ、そのことを踏まえた上で、今、僕らに一つだけ言えることがあるとすれば、それは、この事件が象徴的に意味しているように、僕たちが、今、現実世界とネット世界が逆転し、ネット世界での出来事を現実と受け止め、現実世界の方を「舞台」として受け止め、「演技的」に振舞ってしまいかねない危険に晒されているということです。 にもかかわらず、インターネットがここまで日常的なコミュニケーション・メディアとして定着し、広がってしまった以上、僕たちはその危機を避けて生きることもできなくなっている。人間は、一度便利な物を手に入れてしまうと、二度とそれを手放そうとしないからです。つまり、自動車や飛行機の害をいくら叫んでも、自動車、飛行機なしの生活ができなくなっているように、コンピューターなしの生活は成り立たなくなっているからです。
 以上をインターネット時代を生きる人間の宿命を受け止めた上で、僕は、その危険性を見つめながら、インターネット・コミュニケーションの可能性を僕なりに追求するために、今後ともこのホームページに書き込みを続けて行くつもりです。 すでに記したように、インターネットによるコミュニケーションに、人間と人間の新しい形の出会いを可能にする何かが秘められていると思うからです。 ただそれでも、自分がインターネット・パフォーマンスを演じていることに気づいた時には、再びパソコンのない現実の世界に戻って、孤独に自分と向かい合おうと思っています。 そう、高橋如安さんが、時々、陸の孤島「アバ音楽の森」に引っ込むように・・・・・・。